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「良医」は、医学生を絶対甘えさせない!

 

 もちろん、医師のなかには、「名医」より「良医」と呼ばれる人たちがたくさんいます。

 

 私かこれまでの人生のなかで、心から尊敬し、師とも仰ぐ医師をひとり挙げるとすれば、コロンビア大学の内科主任教授(コロンビア大学)ラーブ先生の名を挙げるでしょう。ラーブ教授が、なぜ、素晴らしい医師であったか、少し長くなりますが、ここに書かせてください。

 

 ニッポンの大学ぽ学部の内科教授はたいてい四人ですが、アメリカでは、百名以上の内科教授かいる医科大学、大学医学部は少なくおりません。それに、非常勤の臨床内科教授を含めると、その数は優に二百人に達するでしょう。ニッポンの医科大学、大学医学部では、考えられないでしょう。

 

 しかも、これらの多くの内科教授の下に准教授、助教授、講師さらには何百人かの非常勤臨床内科教授がいるのですから、内科だけでもニッポンの医科大学、大学医学部全体の教授数を上回ることと思います。これらの多くの内科教授連の指導者が、内科主任教授であり、全米でも医科大学、大学医学部の数しか存在せず、内科主任教役といえば、医学界でももっとも畏敬される地位なのです。

 

 私がアメリカで会った多くの内科主任教授のなかで、もっとも印象に残っているのは、ラーブ教授です。彼はアジソン病の研究者で有名ですが、それよりも、多くの有名なアメリカの内科教授を育て、セシル内科教科書を現在のようにもっとも権威あるものにした功績は、何ものにも代えがたい価値ある業績です。

 

 彼は、有名なロックフェラー研究所(現在は大学)の科学者で、所長も兼ねていたユダヤ人の父とWASPだった母との間に生まれました。これについては、いろいろと社会間題になったそうですが、ここでは割愛します。

 

 彼は、総合大学も医学部もハーバード大学を卒業し、オスラー博士で有名なジョンズーホプキンス大学病院で内科の研修を受けました。その後、ドイツのミュンヘン大学で研究し、帰国後、コロンビア大学で内科助教授になりました。

 

 現在、EBM(科学的根拠による医療)という診療法が流行していますが、この医療が始められたのは、ラーブ教授が若かりしころ、活躍した一九三五-一九四五年ごろだったと私は思います。

 

 戦前のアメリカ内科医学界の(トルコ青年運動)が医学教育ならびに診療改革を始めたことは、わが国ではあまり知られていません。明治末期ごろ、東欧に栄えたオスマンートルコ帝国がサルタンの独裁政治でトルコ内外の人々を苦しめた時、若いトルコ人たちが大革命を起こした若者の政治家たちのことです。それまでアラビア流であったトルコ語の書き方が英語のようなア  ルフアベットに変わったのも、彼らの業績のひとつでしょう。それは、日本語がすべてローマ字になったような大改革でした。

 

 第二次世界大戦前、アメリカ内科学会という「城」から、Annals of Internal Medicineの雑誌を発行し、それまでの陳腐な内科医療を指導していた内科教授連に反抗し、若い内科助教授、講師、助手たちが、若い専門医たちに檄を飛ばして革命的な内科診療の運動を起こしたのです。

 

 彼ら、若い医師たちは学会を創立し、現在でも繁栄し続けているJournal of clinical investigationを創刊し、新しい内科の基礎を作り上げたのです。

 

 当時、若い助教授であったラーブ先生も、この運動に参加した新進気鋭の内科医でした。彼は生化学と生理学を内科の診療に取り入れて、アジソン病の電解質と水分の変化を研究し、これらをもとに、治療を始めました。いまなら医学生の誰もが知っている病気のメカニズムですが、そのころでは画期的な臨床研究であり、治療法だったのです。

 

 以後、彼は、准教授、内科教授、さらには内科主任教授に昇進しました。人々の噂では、前任のパーマー内科主任教授が、心臓カテーテルノーベル賞を受賞したグーチン、リチャード両教授の研究を妨げたため辞任に追い込まれた後、まだ若いラーブ先生が内科主任教授に昇進したのです。それはともかく、コロンビア大学では、内科主任教授は、約百人の内科教授ならびに臨床内科教授のうえに君臨する地位でランバート財団が教授職を寄付したので、と呼ばれ、アメリカの百二十以上の医科大学、大学医学部のなかでもっとも畏敬されていた地位でした。

 

 私かラーブ教授に初めて紹介された時、彼は五十五歳ぐらいであったと思います。

 

 少し紅色の顔に、プラチナのような白髪がふさふさとしていて、若いころはさぞ美男子だったであろうと思われるほど、ハンサムな紳士でした。実際、美形の顔だけでなく、若いころから厳しいアイビー・リーグの医療機関で研鑚されていたので ニューインタランドの生活様式や学究態度がにじみでている性格で、まるで演劇の台詞のように話す彼の会話、発音、討議に、医学生たちはかなり圧倒されていたようでした。

 

 コロンビア大学病院であるコロンビア・プレスビテリアン・メディカル・センターで受けた印象は、医学生や医師がどんなに優秀な成績をあ・げても、またどんなによい仕事をしても、ラーブ教授から決して褒められないということでした。なぜなら、彼らはそれが当然とみなされていたからです。しかしいったんヘマをしたり、サボつたり、遅刻したりすることは絶対に許されないことでした。それが、いわゆるアイビー・リーガーの掟のようになっていました。

 

 さらにすごいことは、ラーブ教授は沈黙して何も表現しない医学生や医師を人間として扱わないことでした。私が見ても素晴らしいと思える医学生や医師たちに対しても、(彼は賢い医師だ)とは呼ばずに(彼は批判的なヤツだ)と呼ぶだけだったのです。あまりにも、まわりに優秀な人やインテリが多いため、彼らは少しも素晴らしい人材ではなかったのです。

 

 私は、当時、内科の助手でしたが、アメリカの医学生臨床教育を見学したいからと、特別の許可を得て、ラーブ教授の医学生回診に受け入れてもらいました。

 

 アメリカでは、臨床医学教育には、多くの常勤または非常勤のプリセプター(臨床教官)のなかの一人が、三年、四年生医学生二人を毎日受け持っていました。内科教授、特に主任内科教授の回診には、週に一回、内科レジデント(研修医)と五、六人の医学生が従いました。

 

 医学生たちは、レジデントから、どのような病気を持った患者さんをラーブ教授に見せるか、前もって知らされていたので、その病気について、教科書はもちろん、雑誌の記事を読んで相当な知識を持っていましたが、教授の前では、緊張して何も言えず、なかには震えている者さえいました。親しくなった医学生のフレッドに尋ねると、教授に質問されると、掌に冷や汗が出て、早鐘のようになる心臓の鼓動を制することすらできなかったと言っていましたから、医学生たちはかなり緊張していたにちがいありません。

 

 コロンビア大学の医学生は、頭脳が素晴らしいだけでなく、金持ちの子弟が多かったように思えます。しかし、彼らは、家で甘やかされて育ったような者はひとりもいません。患者さんの診療に伴う汚い仕事もてきぱきと責任を持って励んでいました。

 

 そんなある日のことです。

 

 ラーブ教授が、医学生と回診を始め、ベッドサイドで患者さんを前に教えていました。

 

 その時、医学生の一人が二分遅れて病室に入ってきました。医学生はエレベーターが故障して遅くなったと、教授に弁解をしたのですが、教授は彼を許しませんでした。

 

 「医学生は、学生といえども医師のように振る舞わなければならない。医師がもし遅刻をして緊急患者の診療に遅れたら、命にかかわる。医師になる医学生の遅刻は、絶対に許さない」

 

 と言うのです。医学生はがっくりとうなだれて、病室を出ていきました。遅刻することを何とも思わないニッポンの医学生は、アメリカの厳しい状況を知りません。

 

 それだけではありません。教授は、いかにカルテが医師や患者さんにとって大切であるか、囗が酸っぱくなるほど、医学生や研修医に強調していました。医学生が必要なことを略したり、不要なことをだらだらと書いたり、まずい英語でカルテに病歴を書くと、

 

 「君はどの大学で何年間、英語を習ったのか」

 

 と、激しく医学生を叱りました。そして、カルテが充実するまで、何回も何回も書き直させるのです。彼の下で研修を受けた医師たちが書いたカルテを読むと、間診だけでいかに多くの情報が得られ、正確な診断が得られるか、私は、この時、実感したのです。

 

 ラーブ教授は、ニッポンから教授が訪れると、いつも私に通訳を命じるとともに、会話を豊かにするために、必ず私をオフィスに呼びました。ニッポンから来る医師に対して、失礼のないようにしようという温かい気持ちが私にはよく感じられました。

 

 そんなラーブ教授でしたが、ある時、こんなことがありました。

 

 ニッポン人のカメラ好きは有名ですが、ニッポンから来たあ・る内科医がラーブ教授が聴診しているところを撮ろうとフラッシュをたいたのです。ラーブ教授は、その時も遠慮せず、激しくニッポンの教授を叱りつけました。

 

 「患者さんにもプライバシーかおる。許可もなく写真を撮るとは何事だ。医師は患者さんの気持ちをまず第一に考えなければならないのに、平気でシャッターを押すなんて……」

 

 私は、そのことをニッポンの某教授に伝えると、彼は頭を下げ、小学生の子供のように患者さんに謝ったのです。

 

 医師がこんなことで患者さんに謝る姿など、ニッポンでは絶対にないかもしれません。ここにも、アメリカとニッポンの医師と患者さんの関係の違いがあるようです。

 

 私は、そんなラーブ教授を尊敬しました。そしてたくさんのことを学びました。

 

 アメリカでは、医師にとっては学歴などまったく信用されないこと。相王がどんなに偉い人でも、病状に関する正しいことは正しく伝えること。患者さんとは対等で、ともに病気と闘っていくこと……などなど、教えられたことはたくさんありました。

 

 私かコロンビア大学を去ることになり、教授に別れを告げた時、恐れながら、教授の写真を一枚ほしいと申し出ました。すると彼は快く、一枚のポートレートを秘書に命じてくれました。

 

 私はいまでもその写真を壁に掲げ、彼の言葉を回想し、自分を励まし謙虚な心で患者さんに向かい、確実な診断と周到な診療を思考することを、いつも自分に言い聞かせています。

 

 検査だけに頼って診断を下す医師は、決して「良医」ではありません。

『名医発見』中野次郎(元オクラホマ大学医学部教授)著より