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 脳科学とアスペルガー症候群


 近年の脳科学の進歩で、これまでは脳を解剖したり、動物実験で脳に電極をつけたりして調べるしかなかった生きている脳のなかのプロセスを、直接リアルタイムで観察することがで

きるようになった。そして手を動かす、痛みを感じるといった比較的単純なこと(とはいっても、これらも十分複雑な過程なのだが)だけでなく、言葉を聞いたり、記憶を呼び起こした

りする脳の活動で、脳のどの部分が使われているのかを見ることができるようになった。PET(陽電子放射断層撮影法)スキャン、ファンクショナルMRI、脳磁図(脳の神経細胞か

活動するときに流れる電流がつくりだす、かすかな磁場を測定する検査)など、その測定原理はさまざまだが、脳の血流の微妙な変化(前二者)や神経細胞の電気的興奮による磁場変化

(後者)をとらえて、脳のどの部分が、どういうことをしているときに活動が増すかを、見ることができる。

 脳科学の究極の目的の一つが、人の意識の問題だ。人の意識は脳のどの部分の活動なのか、それとも脳全体、あるいはからだじゅうにはりめぐらされた末梢神経まで含めた神経全体な

のか。人以外の動物にも意識はあるのだろうか。あるのだとしたら、どんな動物にまで意識はあるといえるのだろうか。前章でふれた、意識を「内なる目」と定義した(ンフリーは、た

いていの人がイヌには意識があるのだろう、と結論を出すかもしれないが、彼自身としては懐疑的だ、といっている。愛犬家ぶりを綴った名エッセイ『人イヌにあう』の著者でもある動

物行動学者ローレンツは、(ンフリーにどう反論するだろうか。

 他の動物はともかく、人の意識の座がどこにあるのか、という難問は、十六世紀のヨーロツパの最人の知性でもあったデカルトが、松果体にあると結論づけて以来、常に脳科学の最人

の難問だった。日本で人の意識の問題を精力的に探究している茂木健一郎氏は、クオリアという概念を前面に出して、意識を探っている。

 クオリアとは何か、という詳しい説明は茂木氏の本(『脳とクオリア』)を参照してもらいたいが、バラの花のいきいきとした質感のある「赤い色」という感覚が「クオリア」だとい

う。バラの花が赤いのは、バラの花びらを形作っている物質が、人に赤という感覚を生じさせる波長の光を反射するからだ。でも、私たちがバラの赤い色を見るときには、その鮮やかな

赤い色はバラの性質の一つであって、決して切り離しては考えられない。この質感を感じているのが人の意識だろう、というのが茂木仮説だ。

 ここで賢明な方のなかには、そうかテンプルーグランディンさんは、コロラドーロッキーの荘厳さがわからないのであれば、バラの赤い色の「クオリア」もわからないに違いない、と

気づかれた方がおられるのではないだろうか。そうなのである、もしかするとアスペルガー症候群の人は、目に見えたものや聞こえた音、声の「質感」のようなものを感じるのが苦手な

のかもしれない。そうだとすればアスペルガー症候群の人が赤いバラを見ているときと、バラの赤い色を愛でる人がバラを見ているときの、脳のはたらく場所やはたらき方をくらべれば

、その差が、意識と関係ある部分をさし示しているかもしれない。茂木氏もたぶん、それに気づいておられるのだろう。

 特定の波長の色を「赤」と認識するだけではなく、それに質感といった説明しようのない意味を与えているのが、おそらく人の意識なのだろう。たぶんそれは前章で述べたワーキング

メモリーのはたらきと深い関係がある。自閉症の子どもの、物や行為への執着は、ワーキングメモリーの焦点を移動させるという機能が低下しているのだろう、といっている研究者がい

る。

 ワーキングメモリーには、時間の経過を感じるという機能がある。アスペルガー症候群高機能自閉症の子どもは、時間の経過や物事が起こった順序に対する感受性が欠落しているこ

とも、わかっている。

 こうした脳の高次機能に障害のあるアスペルガー症候群の子どもたちが、心の理論を身につけたり、顔つきや表情、言葉のニュアンスをどうやって身につけていくかを、脳科学の方法

を駆使して調べれば、そうした高次脳機能が脳のどの部分がどのようにはたらいて発揮されているのか調べることができる。同時にその結果を、アスペルガー症候群のような高次脳機能

に障害のある子どもたちの治療や教育にも役立てることができる。

 私たちはまだ初歩的な段階だが、アスペルガー症候群の子どもがソーシャルスキルが下手なわけを、脳科学的に調べる試みをはじめている。他人の顔や表情を理解する能力は、対人的

知能のもっとも基本的な要素だ。アスペルガー症候群の子どもに、いろいろな表情をしたたくさんの人の顔写真を見てもらい、表情の判断をしてもらうと、ふつうの子どもより表情を理

解するのが下手なことがわかっている。そこで私たちは、ふつうの子どもとアスペルガー症候群の子どもに、たくさんの他人の顔写真を見せて表情の判別をしてもらった。ここまではこ

れまでの心理テストと同じだが、私たちは判別をしてもらっているときに、脳磁図を同時に測定してみたのだ。

 するとふつうの子どもでは右の側頭葉と後頭葉のあいだに、弱い磁場が発生していることがわかった。ところがあるアスペルガー症候群の子どもは、人の表情を判別するのにふつうの

人のように右の側頭葉と後頭葉のあいだを使わずに、反対側である左の頭頂葉を使っていることがわかったのだ。つまり、同じ顔の表情を理解するのに、アスペルガー症候群の子どもは

、どうやら別の方法で判別をしているようなのだ。

 テンプルーグランディンさんが、ソーシャルスキルを身につけるために、それまで経験したさまざまな状況を、写真に撮るように視覚的なイメージにして記憶しておいたのと同じよう

に、人の表情をふつうの方法では判断することが(たぶん)困難なアスペルガー症候群の子どもは、脳の別の部分を動員して顔を判断しているらしいのである。テンプループランダイン

さんと似たような努力が、人知れずアスペルガー症候群の子どもの頭のなかで行われている。