脂肪吸引法の現状

 

 脂肪吸引法はアメリカで最も流行している美容外科手術の一つで、その研究も盛んに行われています。日本でも、脂肪吸引法が施行されるようになって、約二〇年が過ぎます。

 一方、この手術が原因とも考えられる死亡例をどこかで聞き、不安を感じている人がいるかもしれませんが、最近の研究では一度に大量の脂肪を吸引することさえしなければ、安全度の高い手術であることがわかってきています。

脂肪は身体の大切な一部

 自分の脂肪層から豚の脂身を想像し、これをなくしたいと思っている人が多いことは容易に想像できます。

 この脂肪層細胞の数や配置はあらかじめ定められており、一つ一つの脂肪細胞が大きくなることで脂肪層の厚みも増していくと考えられています。そのため、脂肪吸引法である程度の脂肪を除去すれば、かなり永続的な痩身効果を得ることができるはずです。

 しかし、脂肪層は血が通いリンパ液も流れる立派な生きた組織ですし、人間が生きていくために必要な組織の一つですから、やたらに脂肪吸引してもよいことにはなりません。

 また、特異な場所に生じる脂肪の異常な沈着は年齢や遺伝的な要素と関係し、体形を崩すもとになるとも知られています。このような脂肪層は、ダイエットでの減量が難しいことも多く、脂肪吸引法のよい対象となります。

脂肪吸引法と皮膚の緊張

 太ももの内側のように比較的皮膚の柔らかい部位や、張りを失ったお尻や太もも、あるいは皮膚線状と呼ばれるストレッチマークがある部位などに極端な脂肪吸引を行うと、術後、デコボコが残りやすいことが知られています。

 したがって、皮膚の緊張が弱まっている人は脂肪吸引に対し、過度の期待をもっべきではありません。場合によっては、ダミータックやボディリフトが必要になるはずです。

 これに対して若年者のように張りのあるお尻や太ももの外側などは、ふっう皮膚の緊張が保たれており、脂肪吸引によってよい結果を残す可能性が高いといえます。

 いずれにしても皮膚の表面がスムーズになる結果を得るためには、一定以上の皮膚の緊張が必要です。

 

自動翻訳のトランスファー方式とピボット方式

 構文構造の解析と意味構造の解析

 これはどういうことかというと、まず形態素解析を経たものが、文法的にいかなる構文であるかを解析する。たとえば、「そのような税制は導入しない、ということは公約したとおりであり、現時点ではまったく考えておりませんが、しかし、財源を考慮すれば、かならずしも導入はないとはいいきれない、と考えていないわげではない、と申し上げてさしつかえない」という、十重二十重の否定が、文法的には否定文であるのか肯定文であるのかを認知することである。

 同時に、意味が適当であるか否かを見る。たとえば「きのう食べたコンクリートアスファルト煮はおいしかった」というのは、文法的には正しい。しかし、意味としてはおよそありえない。かりにソース言語文の単語の組み合わせでこういうおかしな文ができても、意味構造として適当であるか否かをチェックするのだ。

 この構文構造解析と意味構造解析が終了すると、変換のプロセスとなる。構文構造にしたがい、また意味構造にしたがい、一定の規則のもとに英語に変換されるわけだ。

 規則というのは、ソース言語とターゲット言語の照合のための、いわば和英辞書・英和辞書をはじめとするソフトウェアである。これを「トランスファー規則」という。それから、変換処理されたものを英語の構文構造、意味構造にしたがって、ターゲット言語である英語文に変換する“生成プロセス”となる。これが、本格的な実用型自動翻訳装置として主流をなしている”トランスファー方式″である。しかし、この方式にも問題がないわけではない。

 というのも、和英と英和という二言語のみを対象とする場合はともかく、日本語からドイツ語、日本語からフランス語、日本語から韓国語など、複数語間の翻訳となると、それぞれに合致したトランスファー規則を用意しなければならない。人間でいえばバイリンガルどころか、マルチリンガルの語学力が必要ということになる。だが、世界中で数百もある言語の、そのすべてのトランスファー規則を装備するのは合理的ではない。まして通訳電話として考えると、そこまでのシステムを組み込むのはちょっとむずかしい。

 そこで″ピボット方式″というシステムが考えられた。NECの自動翻訳はこの方式である。これは、構文構造解析と意味構造解析から変換プロセスに入るのではなく、“中
間表現”という日本語でもなければどこの国の言語でもない、エスペラントでもない、まったくニュートラルな、概念としての構造にいったん置きかえるものだ。言語にはいっさい依存せず、たとえていうなればソース言語文の内容を図式化したようなものである。

 それからこの中間表現を、あらためてターゲット言語特有の表現と規則に照合し、構文構造を生成し、形態素を生成してからならべかえ、翻訳終了となるのである。つまりはソース言語から中間表現までの解析プロセスとは逆の、生成のプロセスをたどってゆくわけだ。

 したがって、ターゲット言語を変えるときは、この生成プロセスを交換すればよいわけだし、また複数のプロセスを装備すれば、一つのソース言語から同時に複数のターゲット言語にも翻訳できる。しかし、もっと重要なのは、情報伝達が中間表現で行われれば、世界各国の電話システムは自国語の解析と生成の機能をそなえるだけで、すべての言語と相互の通訳会話が可能になることだ。これがピボット方式である。

機械通訳システム:声音で意味が変わる音声合成のむずかしさ

 通訳電話における機械翻訳としての機能では、音声認識音声合成も重要である。特定の個人の声を認識できるだけでは、電話としては都合が悪い。誰の声でもきちんと認識してくれなくては困るし、一つの単語でも人によっては訛りもあれば発音の癖もあるが、それも聞きとれなくてはならない。しかも特定の個人の声でも、話の内容しだいで抑揚も変化する。

 また音声合成の段階で、同じ甘葉でもその声質によって意味がまったく変わるので、そのへんも考慮しなくてはならない。「この子ったら行儀の悪い子ね!」と母親が叱る言葉も、ほろ酔い気分でよりかかってきた女性が、流し目で「あなたって、いけない人ネ」というのも、英語に訳せばYOU ARE NAUGHTY BOY.である。音声も抑揚も同じ調子では、いったいなんのことやらわからなくなる。

 文の前後の関係から、合成される声の質も、内容に合致するよう変化する必要がある。もっとも、通訳付きで「いけない人ネ」といわれても、そこから先へは進めないだろうが。

 NECにおける現在の開発は、もちろんそうした段階まではいってないが、基本的な技術はクリアーされて、あとぱ半導体のキャパシティーが増加するのと歩調をあわせてすすむことになりそうだ。

 ただ、ビジネス関係と技術関係に限った内容の通訳電話の実用化は、そう遠くはないだろう。それにポータブルの自動通訳装置の登場は、今後10年以内と見こまれている。これだけでも、人間のコミュニケーションに、劇的な変化をもたらすことは確実だ。海外での取材辛打ち合わせなど、いまから用途を考えたくなる。

 脳科学とアスペルガー症候群


 近年の脳科学の進歩で、これまでは脳を解剖したり、動物実験で脳に電極をつけたりして調べるしかなかった生きている脳のなかのプロセスを、直接リアルタイムで観察することがで

きるようになった。そして手を動かす、痛みを感じるといった比較的単純なこと(とはいっても、これらも十分複雑な過程なのだが)だけでなく、言葉を聞いたり、記憶を呼び起こした

りする脳の活動で、脳のどの部分が使われているのかを見ることができるようになった。PET(陽電子放射断層撮影法)スキャン、ファンクショナルMRI、脳磁図(脳の神経細胞か

活動するときに流れる電流がつくりだす、かすかな磁場を測定する検査)など、その測定原理はさまざまだが、脳の血流の微妙な変化(前二者)や神経細胞の電気的興奮による磁場変化

(後者)をとらえて、脳のどの部分が、どういうことをしているときに活動が増すかを、見ることができる。

 脳科学の究極の目的の一つが、人の意識の問題だ。人の意識は脳のどの部分の活動なのか、それとも脳全体、あるいはからだじゅうにはりめぐらされた末梢神経まで含めた神経全体な

のか。人以外の動物にも意識はあるのだろうか。あるのだとしたら、どんな動物にまで意識はあるといえるのだろうか。前章でふれた、意識を「内なる目」と定義した(ンフリーは、た

いていの人がイヌには意識があるのだろう、と結論を出すかもしれないが、彼自身としては懐疑的だ、といっている。愛犬家ぶりを綴った名エッセイ『人イヌにあう』の著者でもある動

物行動学者ローレンツは、(ンフリーにどう反論するだろうか。

 他の動物はともかく、人の意識の座がどこにあるのか、という難問は、十六世紀のヨーロツパの最人の知性でもあったデカルトが、松果体にあると結論づけて以来、常に脳科学の最人

の難問だった。日本で人の意識の問題を精力的に探究している茂木健一郎氏は、クオリアという概念を前面に出して、意識を探っている。

 クオリアとは何か、という詳しい説明は茂木氏の本(『脳とクオリア』)を参照してもらいたいが、バラの花のいきいきとした質感のある「赤い色」という感覚が「クオリア」だとい

う。バラの花が赤いのは、バラの花びらを形作っている物質が、人に赤という感覚を生じさせる波長の光を反射するからだ。でも、私たちがバラの赤い色を見るときには、その鮮やかな

赤い色はバラの性質の一つであって、決して切り離しては考えられない。この質感を感じているのが人の意識だろう、というのが茂木仮説だ。

 ここで賢明な方のなかには、そうかテンプルーグランディンさんは、コロラドーロッキーの荘厳さがわからないのであれば、バラの赤い色の「クオリア」もわからないに違いない、と

気づかれた方がおられるのではないだろうか。そうなのである、もしかするとアスペルガー症候群の人は、目に見えたものや聞こえた音、声の「質感」のようなものを感じるのが苦手な

のかもしれない。そうだとすればアスペルガー症候群の人が赤いバラを見ているときと、バラの赤い色を愛でる人がバラを見ているときの、脳のはたらく場所やはたらき方をくらべれば

、その差が、意識と関係ある部分をさし示しているかもしれない。茂木氏もたぶん、それに気づいておられるのだろう。

 特定の波長の色を「赤」と認識するだけではなく、それに質感といった説明しようのない意味を与えているのが、おそらく人の意識なのだろう。たぶんそれは前章で述べたワーキング

メモリーのはたらきと深い関係がある。自閉症の子どもの、物や行為への執着は、ワーキングメモリーの焦点を移動させるという機能が低下しているのだろう、といっている研究者がい

る。

 ワーキングメモリーには、時間の経過を感じるという機能がある。アスペルガー症候群高機能自閉症の子どもは、時間の経過や物事が起こった順序に対する感受性が欠落しているこ

とも、わかっている。

 こうした脳の高次機能に障害のあるアスペルガー症候群の子どもたちが、心の理論を身につけたり、顔つきや表情、言葉のニュアンスをどうやって身につけていくかを、脳科学の方法

を駆使して調べれば、そうした高次脳機能が脳のどの部分がどのようにはたらいて発揮されているのか調べることができる。同時にその結果を、アスペルガー症候群のような高次脳機能

に障害のある子どもたちの治療や教育にも役立てることができる。

 私たちはまだ初歩的な段階だが、アスペルガー症候群の子どもがソーシャルスキルが下手なわけを、脳科学的に調べる試みをはじめている。他人の顔や表情を理解する能力は、対人的

知能のもっとも基本的な要素だ。アスペルガー症候群の子どもに、いろいろな表情をしたたくさんの人の顔写真を見てもらい、表情の判断をしてもらうと、ふつうの子どもより表情を理

解するのが下手なことがわかっている。そこで私たちは、ふつうの子どもとアスペルガー症候群の子どもに、たくさんの他人の顔写真を見せて表情の判別をしてもらった。ここまではこ

れまでの心理テストと同じだが、私たちは判別をしてもらっているときに、脳磁図を同時に測定してみたのだ。

 するとふつうの子どもでは右の側頭葉と後頭葉のあいだに、弱い磁場が発生していることがわかった。ところがあるアスペルガー症候群の子どもは、人の表情を判別するのにふつうの

人のように右の側頭葉と後頭葉のあいだを使わずに、反対側である左の頭頂葉を使っていることがわかったのだ。つまり、同じ顔の表情を理解するのに、アスペルガー症候群の子どもは

、どうやら別の方法で判別をしているようなのだ。

 テンプルーグランディンさんが、ソーシャルスキルを身につけるために、それまで経験したさまざまな状況を、写真に撮るように視覚的なイメージにして記憶しておいたのと同じよう

に、人の表情をふつうの方法では判断することが(たぶん)困難なアスペルガー症候群の子どもは、脳の別の部分を動員して顔を判断しているらしいのである。テンプループランダイン

さんと似たような努力が、人知れずアスペルガー症候群の子どもの頭のなかで行われている。

学習障害をめぐる紆余曲折

 

学習障害は英語で「Learning disabilities」と呼ばれ、その頭文字をとっだLDという略称のほうがよく知られているかもしれない。このLDという用語と概念をはじめて提唱したのは

一九六三年アメリカのカークであるが、最初の定義のなかで、LDの子どもの知能レベルはいろいろであるとされていた。それに対してLDの親の会は強く反発した。その結果、紆余曲

折を経て、日本では次のような定義に落ち着いている。

 「学習障害とは基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する、または推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示すさまざまな

状態を示すものである。学習障害は、その原因として、中枢神経系になんらかの機能障害があると推定されるが、視覚障害聴覚障害知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因

が直接の原因となるものではない」

 たしかにすっきりとした定義である。知的障害や、視覚や聴覚に障害はない、しかし実際に学校では、いわゆる「読み書きそろばん」が苦手な子どもということになる。こういう子ど

もに、言語的知能と非言語的知能とを分けて測定できる知能検査を行うと、両者のあいたに人きな開きがあることがわかる。ただし定義にあるように、両者を合わせた総合的知能は正常

範囲に入る。ここで言語的知能が、非言語的知能(動作性知能)にくらべて三〇パーセント以上低い場合は、言語性LD、その逆の場合は非言語性LDと分類している。

 たしかに言語性知能とか、非言語性知能といったむずかしい用語は出てきているが、すっきりしか定義だ、と思っておられる方も多いのではないだろうか。

 一九九〇年代の初頭、このLDが一般に広く紹介され、わが子の学業成績に頭を悩ませていた全国津々浦々の多くの親は、うちの子はこれに違いない、と新聞の切り抜きを握りしめて

、小児科や児童精神科を訪れたのだ。     

 ところが、子どもの発達の専門家であるはずの、小児科医や児童精神科医は、新聞の切り抜きを突きつけられて困惑した人が多かったのだ。なぜなら、その当時(そして、いまもまだ)このLDという障害をどう位置づけてよいのか、明確な方針がなかったからなのだ。

 現在、このLDという障害概念は、これまで述べてきた人の能力の多重性を考えるうえで、きわめて重要な概念である。また、現在の子どもの心の問題を考えるうえで避けては通れな

いものだ。しかし、それを解釈するうえで、多くの紆余曲折があり、混乱があった。

 学習障害をめぐる紆余曲折の最初は、現在は定義にあるように中枢神経系のなんらかの機能異常であると考えられているLDが、はじめは子どもの学校での成績と知能との乖離という

教育的な問題から発したことに関連している。

 医師は、一応は理科系人間に属する。理科系人間の得意技は、この世のなかの出来事を物質や分子、原子などの要素に分解して理解することである。たとえば子が親に似るのは、遺伝

子、つまりDNAと呼ばれる物質が、からだを形づくるタンパク質を決定する情報を担っているからである。このような要素に還元してものごとを考えるやり方を還元主義と呼んでいる

扁平母斑naevus spilus

 

 〔症状〕爪甲~手掌大、円~楕円~不正形、淡褐色の、扁平な色素斑で、しばしば褐色小色素点をその面上に有し、思春期前後に発することが多い〔遅発性扁平母斑(n. sp. tardus)〕.男子の胸筋部・肩甲部に好発し、片側性かつ有毛性のものを、特にベッカー母斑〔Becker's melanosis、 Becker's pigmented hairynevus〕と呼ぶ.

 [組織所見]基底層におけるメラノサイトの軽度増加とメラニン色素の増加が主体で、母斑細胞はない.ときに表皮突起延長、表皮肥厚、毛包の過形成を伴う.

 〔治療〕切除、雪状炭酸、皮膚削り術.

   乳児期からみられる扁平母斑〔カフェ・オ・レ斑ともいう〕が6個以上あるとき、 Recklinghausen病((ESS-p. 369)の可能性を考える[six spot criterion].

 単純黒子lentigo simplex : 直径数mmまでの隆起しない褐~黒褐色の色素斑.組織学的には扁平母斑と同じ.隆起していないいわゆる

 「ホクロ」は、組織学的に単純黒子か境界母斑である.

特定病因説の支配

 

     現代医学は分析的手法によって支えられていますが、分析のしっぱなしで科学者が満足するわけはありません。分析によって一つの病気や一つの現象にかかわる因子・条件を可能なかぎり洗い出し、それを踏まえて一定の原因や法則を確認することによって、病気をコントロールするための拠り所を見出すことこそ、医学研究の目標なのですから。そのためには単に集まった情報を横ならべするだけではなく、それらの情報に重みづけをして、病気の診断や患者の治療に最も深くかかわる因子と副次的な情報とをよりわけなくてはなりません。たった一つの因子さえ操作すれば患者の病気が完全に制御できる、というような簡単な対応関係が発見できれば、これほど能率的な話はありませんか

 そのような単独因子を確定することによって医学研究のいわば理想的なモデルを提供したのは、細菌で引き起こされる感染症研究の場合でした。体液異常、遺伝、環境、ミアスマ(空気中の病的汚染物質)などが、古代から病因論の場で互いにゆずらず激しく争いつづけた有力な仮説群でしたが、ルネッサンス期の詩人・科学者の一人フラカストロの『伝染病論』(一五四六年)のあたりから病原微生物に対する相当確実な予感があらわれました。

 ことに一八八二年のコッホによる結核菌の発見によって感染症・細菌学の世紀、つまり特定病因論の時代がはじまったといっていいでしょう。実は、細菌学は医学の歴史からいうとむしろ比較的若い専門分野で、解剖学や生理学や病理学や薬理学よりは遅れて医学研究の場面での市民権を獲得したといっていいのです。近代医学研究のお手本といってもいい、正確でいきとどいたコッホの「結核の原因論」の発表自体、一八八二年ベルリン大学の生理学教室で開かれた生理学会で行われたものです。細菌学会がまだ存在していなかったのです。この論文は人類の最大の脅威であった結核の本拠を一挙についたという歴史的な意味を持っていただけでなく、「コッホの三原則」と呼ばれる細菌学的研究の基本原則を打ち出すことによって、感染論-ひいては医学研究一般のための近代的論理を定着させたという点て画期的であったということができます。その三原則というのは、

  一、ある微生物が特定の病変組織でつねに見つかる

 二、その微生物が人工の培養基で代を継いで増殖すること

 三、その培養された微生物を動物に接種してその病気を再現することができることの三つです。これによって病原菌が決定されるのです。注目に値するのは、ある病気を引き起こす単数の原因因子-病原微生物(細菌またはウィルス)を患者の体から引き離して独立のものとして取り出すことができ、それを用いて健康な動物に同じ病気を引き起こすことができることを確認したことです。この実験の成功によって、病気の原因を人間の体から切り離し、人間としての患者をさしおいて、病気の原因そのものを思いのままに操作するという能率的な、一次方程式的な研究方法論とそれに支えられた単純・明快な医学思想とが定着しました。これが「特定病因説」です。

 

『医者と患者と病院と』砂原茂一著より